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神影流とは

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綜合武道・神影流武道場の[武道精神]

  修行者個人の[身体・体育]と[心・精神]の二つの結合こそが武道修練の真髄である。

[剣の道]は、剣技としての法則の通り錬磨する。その後に、[法]として[形]に修得した剣技と精神をおさめ、己を磨くとともに

        後世に修行する人のために残された剣の技と精神を正しく伝えていくことが肝要である。

[法]の心は、剣法という点からみても剣の法則、剣の規律、その中にある礼節と厳しい原理のことである。

伝統武道である[神影流剣道]ならびに[神心無想流居合道]を主体として、以下の研究と修練を行うことが本格的な日本の武道である。

   1 弓 術 は=骨法の正しきを見よ = 骨格・姿勢の正しさを内面修行せよ

   2 馬 術 は=腰の重大さを養うを生命とする

   3 剣 術 は=弓術と馬術の双方を研究の上、右足の足法(フットワーク)と目の修練を行う

   4    槍術・棒術は=左足のフットワークの鍛錬と研究を行う

   5 体 術 は=古流柔術・空手術などの体術をもって技能的に束ねて

   6 杖 道 は=以上を束ね、それを一つとする

神影流剣道の極致

死生中の和 安心立命への静の世界 兵法は人間生活の法則

 

神ノ影の流は

江戸の初期から中期にかけて、九州・関西地区に生き続け、十七代幸影(吉田長次郎)の時代に兵庫県にこの神影流を正しく伝承した。

二十二世圭祥(中島勝次郎)は明治の宰相西園寺公の秘書に任命され重くもちいられた。二十二世圭祥は、明治・大正・昭和の三代にわたっての活躍した武道家であり、憂国の士であった。また、九峰の名で中華民国の国父・孫文の最高顧問として孫文を支えたことは有名である。

長男の二十三世芳勝(中島勝)、次男の二十四世勝雲(中島踵将弼)は陸軍戸山学校武術教官をされた。同時期に麻布において皇国国民錬成道場・双竜館を設立した。二十四世勝雲は、この神影流をもって、実戦的居合・神心無想流の創始、流祖となる。また、実戦的接近格闘の柳心体術を創始、開祖となる。そして太平洋戦争後の昭和27年、総合武道柳心館道場を設立して、戦後の荒廃した時代に、日本武道精神をもって、数多くの門下生を育成し、世に大いに貢献され、神影流の存在感を示し、二十五世勝峰(豊島一虎)に継承される。

歴史街道2008年3月号 「日本の剣豪」

神影流の祖、上泉伊勢守信綱の高弟神後伊豆守の時代・・・(中略)

当時は稽古に木刀か刃引きの真剣を用いたので、体に当たると怪我をする。そこで当たらないように、一寸か二寸手前で止める。いわゆる「寸止め」を行なった。相手を斬る前に刀を止めるのだから、斬る手応えがわからない。そのために上泉伊勢守は、竹を縦に細く割って皮の袋に入れた「袋竹刀」を考案した。強く撃たれても袋竹刀なら、木刀で受けるようなダメージがほとんどない。

面白いことに、現、神影流では逆の発想で、伝統を守り続けている。つまり真剣で青竹の試し斬りをして、それから形を行なうのである。真剣を使って斬ると云う行為を主題にして、剣術の原点に迫ろうと云うのだ。

神影流二十五世・豊島一虎勝峰先生は、穏やかな表情で、立てている青竹に歩を進める。散歩するかのようだ。斬る一瞬、鋭い眼光が放たれる。太刀さばきは無造作とも見える。青竹がスパスパと斬られていく。修練の果てに会得した、飾りのない動きの連続技。この試し斬りの後で形に入る。刃引きをしていない真剣のぶつかりあい、弾きあう。そして体の際でピタリと静止する。見ている方は、息も抜けない。超弩級の迫力である。

実際の戦では刀は曲り、刃は欠ける。神影流の形でも、同じことが起る。そんな時は、控えの者が刀に布を当てて歪みを正す。見ていて、ただ固唾を呑むばかり。

 

 

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